趣味の「趣」ってどう書くの?

考えごと
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 「厨二病」ということばが使われるようになったのがいつ頃からかは覚えがないけれど、それより前からわたしは厨二病だったと思う。いや、リアルにずっと「中二病」です。
 中2どころか小学校のときからずっと書いていた。スクールカーストへの憤り、親に対する不満、先生への絶望。

 わたし、小学校の頃から勉強だけはできたんです。
 人見知りで、運動おんちで、勉強だけできるやつ。
 いわゆる、めっちゃ嫌なやつ。
 小学校最後の2年間は友だちがいなかった。
 ある日突然クラス全員からシカトされ、幼心に傷ついたわたしは「こいつら全員頭の悪いくそ野郎だな」と思い込むことでしか2年間をやり過ごせなかったし、「どうせ中学に上がっても頭の悪いくそ野郎の寄せ集めだろうな」としか思っていなかった。とうとう小学校の卒業式の日、担任の先生から「あなたがクラスで難しい思いをしていたのを知っていました。よくがんばりましたね」みたいなことを言われたけれど、2年間しんどい日々を過ごしたわたしからしたら、そのことばは「ああ、おとなって見て見ぬ振りをするんだ。世の中誰も助けてくれる人はおらへんのだ」という暗黙の教訓と、孤独感を味わう以外ありませんでした。(ただ、今となっては思う。自分も思いやりとか、人に対するやさしさが欠如していたから、嫌われて当たり前だったと)。

 そんな感じで12歳のわたしは(まじで小さな)世界に対して斜に構えていたので、中学に上がっても友だちなんてできるわけもありませんでした。


 ところが。中学校2年生の4月、出席番号16番だったわたしのうしろに座る、出席番号17番のSさんが話しかけてくれたことで世界が変わったんです。


「ねえ、趣味の『趣』ってどう書くの?」

 中学校って、近隣の小学校2、3校が集まるじゃないですか。
 2年5組、出席番号17番のSさんは、もともとは隣の小学校でワルで有名だったわけです。
 …自分と真逆のタイプ。絶対近寄らないし、仲良くなれないし、なんなら出席番号で座席が前後ってまじで「運悪い。最悪」だったんですよ。わたしからしたら。でも、Sさんにも同様に、わたしに関する噂が事前に耳に入っていたわけ。「あいつ、勉強はできるけどまじで性格悪いらしい」って。
 でも、その前情報を突破して声をかけてきてくれたんです。
「趣味の『趣』ってどう書くの?」
(本人からしたら、「こいつなら漢字知ってるだろう」っていうぐらいだったかもしれないけど)。 
 いやでも「世界」に対して斜に構えつつ、中学校デビューしたい13歳のわたしにとってはめちゃくちゃ嬉しかったんだよね。

 Sさんのことは、すぐに「せんちゃん」に呼び名が変わり、秒速で距離が縮まった。
 当時流行りだったモー娘。とかじゃなく、ポルノグラフィティと福山雅治が好きなせんちゃん。
 絵とか、造形とか、運動が得意で、私服のセンスもおしゃれなせんちゃん。
 なのに、スクールカーストに属さないせんちゃん。
 小学校時代から仲良い「男子」と中学でも仲良くするせんちゃん。
 「○○さんと✕✕くんがつき合った」とか、よくある噂話に興味ないせんちゃん。
 …かっこよかったし、うらやましかった。


 当時スマホなんてないし、携帯電話すら持っている子が少なかったから、せんちゃんとは毎日のようにルーズリーフに手紙を書いてやりとりしていた。わたしが書く内容といえばとにかく「憤り」しかなくて、「1軍女子はくそ」とか「おとなはくそ」だとか、「マイノリティは生きづらい」だとか、そんなことだったと思う。とにかく何かに憤っていたし、怒っていたし、そんなことを書いていたのにせんちゃんは全部受けとめてくれた。
「絵心ない芸人」並にへたくそなイラストを添えても、
いつも美術5のせんちゃんが「味があるよね」「センスあるよね」って、おべっかではなくまじな感じで言ってくれたのめちゃくちゃ嬉しかった。

 運良く中学校3年になってもせんちゃんと同じクラスになれたというのに、かくいう自分はと言えば「スクールカーストのトップに属してみたい」というミーハーな欲望に駆られていた。で、なんか「1軍女子」に金魚のフンみたいに引っついて過ごしてみたけれど、今思えばくだらない数ヵ月だったよね。中学校3年生の「数ヵ月」とは結構に大きな時間である。


「1軍女子」と「スクールカーストに属さないせんちゃん」
 両方うまくやりたいけれど、もちろんそんな力量は当時の自分にはないわけで。結局、高校受験のあれこれとかで、せんちゃんに対して冷たく当たってしまった部分もあると思う。「せんちゃんなら分かってくれるだろう」みたいな甘えもあったし、自分もまじで青かった。ごめんね。
 ちなみに今の自分なら胸を張ってスクールカーストに属さない派を選ぶ。

 そんなせんちゃんとは、高校も大学も、就職先もまったく別の道を歩んだ。
 そりゃそうだ。自分とせんちゃんとは得意なことがまったく違ったから。
 せんちゃんは芸術の道を行って、大学生になったら知らない間にドイツに留学していた。
 自分は、やっぱりなんとなく勉強ができて、なんとなく得意な理系の学部に進学した。だけど大学で挫折して、専攻とはまったく関係のない、しかも営業職に就いた。営業とはなにかも知らずに。
 で、数字はもちろん取れないし、職場でも「新人(若手)のくせにKYだ」としてたたかれた。毎日からだが重かったし、中二病は全然直ってなかった。「世の中が自分に合ってない」とさえ思っていたんです。そりゃ組織で仕事できるわけない。


 せんちゃんはと言えば、今フランスに住んでいる。メールアドレスは知っているけど、LINEは知らない。連絡はせんちゃんが帰国するときか、おたがいの誕生日ぐらい。

 コロナ禍になるちょっと前、せんちゃんが帰国すると連絡をくれて、何年も振りに再会した。
 おたがいお酒も飲める年になっていて、地元の居酒屋でわちゃわちゃ話した。
 結局、思い描いたような「キラキラした学生時代」を過ごせなかったわたしだけど、せんちゃんとの、久しぶりに再会したその数時間はとてもキラキラ輝いていた。
「中学時代にあなたにもらった手紙、今読んでもわりと感動するし、捨てられない」
 …なんということだろう。

 わたしは紆余曲折を経て、しかも期せずして、ライターとして一歩踏み出していた。
 自分の書いた文章で、世の中にどんな影響を及ぼしたいとか、そんな大それた目標もない。
 目的を持ちなさい、とかいわれても、自分にはまだそんなものがない。
 何がわたしを突き動かすか。

「いつか、書いた文章読ませてほしいな」

 今はまだ記名記事もない無名のライターだ。
 誇れる実績なんてなにもない。
 ブログだって中二病全開である。

 だけど、いつか彼女のそのひと言に応えたい。
「せんちゃんに恥じない文章を書く」
 ただその一心で、今、この道を歩んでいる。